地域ごとの特色
蔵の街
江戸時代より例幣使街道の宿場町として、また舟運で栄えた問屋町として北関東の商都と呼ばれ例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。
この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。
栃木市の発展に大きな役割を果たしてきた巴波川の舟運は、元和3年(1617年)、徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際に、ご用の荷物などを栃木河岸に陸揚げしたことにはじまるという。
その後、物資の集散地として、部賀舟(べがぶね)(都賀舟)などが往来し、江戸との交易を盛んにした。
この巴波川は流れが速く下りはよいが上りには大変な苦労を強いられたため、両岸に綱手道(つなてみち)を作り舟を綱で引いて遡航したという。
当時は、川の両岸に多くの舟積問屋や豪商がいらかを並べていたといわれ、入舟町(いりふねちょう)、湊町(みなとちょう)などの地名とともに白壁土蔵が所々に残され当時の姿を今に伝えている。
その後、鉄道の開通と共に、舟運は次第に衰え、今は錦鯉が群れ泳ぎ、舟行や鯉のぼり掲揚、イルミネーションなどのイベントが行われている。
太平山・錦着山
太平山
市街地の西方に、永野川を隔てて秀麗な姿を見せる太平山(345メートル)は、足尾山系最南端に位置する風光明媚な太平山自然公園の中心をなす名山で、太平山神社をはじめ、名所旧跡や豊かな自然に恵まれて、多くの人々が四季を通じて訪れている。
この太平山には、栃木駅から太平山行きのバスを利用した表参道(あじさい坂)コースか、遊覧道路からの一周コースが奨められる。
健脚者は、太平山から岩舟山までのハイキングを楽しむこともできる。
錦着山
巾着の形に似ているので名づけられたとも、春から初夏にかけてのつつじが満開のころ、錦を着ているように美しいからともいわれる標高役80mの小さな山である。 山頂ある護国神社は初代県令鍋島貞幹が、明治12年(1879)に建立したもので、栃木市及び下都賀郡内の戦没者の英霊を合祀したしたもの。燈台は日露戦争の勝利を記念して建てられた。
また、近くには、出流天狗党、西山謙之助の碑があり、山頂西側には赤津川改修工事に英断を下した小根沢元市長の胸像が永野川を見下ろすように建てられている。
錦着山焼きはこの山麓で焼かれたもので栃木市郷土参考館に展示されている。
アクセス 栃木駅より車で約7分
出流
栃木市の西北端に位置する出流は、うっそうとした森林に囲まれた信仰の名刹、出流山満願寺や、豊かな自然の中に広がる出流ふれあいの森、名物の「出流そば」に代表される、四季をとおして家族連れなど多くの人々に親しまれ、賑わいをみせている。
この出流には、宿坊や民宿もあり、泊まりで精進料理や山の料理を楽しむことができる。
星野
出流と三峰山(通称鍋山)を隔てた東側の星野には、古代ロマンを秘めた縄文時代の竪穴式復元住居や地層たんけん館などがあり、初春の蝋梅からセツブン草やカタクリなど四季折々の里山の風景がひろがっている。
出流と並び星野でも「手打ちそば」や「野草料理」、「古代茶」などの名物が楽しめる。
皆川
市街地から、県道栃木佐野線を西に進み、永野川の対領橋を渡ると右手に東宮神社の参道、さらに高速道路をくぐり、まもなくして県道から右手に入ってゆくと右手に皆川城址、直進すると金剛寺にでる。
皆川城址は、古くからこの地域に勢力を張り、栃木の基を築いた皆川氏の居城跡であり、金剛寺は同氏歴代の菩提寺である。また、東宮神社は同氏の氏神を祀った社である。
県道にもどり、さらに西進し、右手に皆川中学校を見て、すぐに柏倉に通ずる右折路がある。これを直進し、しばらくすると北柏倉への右折路となりその終点に柏倉温泉がある。
この皆川地区の東側に位置する吹上地区には、平安時代の頃から東国の歌枕として都にまで知られた伊吹山や標茅が原がある。
宮町
東北自動車道と永野川が交差するあたり、永野川に沿って約1.5キロメートルにわたり植えられた桜並木は、知る人ぞ知る花見スポットとなっている。
宮町では、栃木市の伝統野菜「宮ねぎ」が栽培されている。ずんぐりとした形が特徴のこのねぎは、ここの粘土質土壌でのみ育つもの。とろりと甘くて柔らかく、昔食べたあの懐かしいねぎのあじがする。
惣社・国府
市街地から県道宇都宮栃木線を東進し、しばらく行くと、右手に大神神社の案内板があり、ここを右折すると、正面に黒々と老杉の茂る森が間近である。ここが旧県社であった大神神社であり、その境内には室の八嶋がある。
このあたり一帯は、昭和32年(1957)の合併前は国府村と呼ばれ、その呼称のとおり古くは下野国の中心として国庁が置かれ、惣社が置かれた地域である。
この大神神社の南方には、昭和54年(1979)からの発掘調査によって確認された国庁跡があり、現在宮野辺神社が祀られている正殿跡に南側には前殿が復元されている。
また、県道栃木二宮線を東進し、思川の大光寺橋を渡った隣町の旧国分寺町(現下野市)には下野国分寺跡や国分尼寺跡の史跡等もあり、往古の姿を偲ぶことができる。

























